先コロンブス期(英: Pre-Columbian era)は、アメリカ大陸の歴史と前史の中で、ヨーロッパ白人の少なからぬ影響が現れる以前の時代区分全てを指す言葉である。すなわち後期旧石器時代に人類がアメリカ大陸に渡ってきた時代から、近世にヨーロッパ人が植民地化を競うようになる時代までを言う。
「先コロンブス期」という言葉からはクリストファー・コロンブスが1492年から1504年の航海を行った以前の時代を指すものではあるが、事実上はアメリカインディアンの文化の歴史であり、彼等がヨーロッパ人に大きな影響を与えられ、コロンブスが初めて上陸した後の数十年間あるいは数世紀の間に征服されていった時代までも含めるのが通常である。
「先コロンブス期」という言葉は、メソアメリカのオルメカ、トルテカ、テオティワカン、サポテカ、ミシュテカ、アステカおよびマヤ、南アメリカはペルーのノルテチーコあるいはカラル、さらにアンデス地方のインカ、モチェ、チブチャおよびカニャリといった偉大な先住民文明を論ずる文脈で使われている。またカホキアを生んだ北アメリカのミシシッピ文化にも適用される。カホキアはその最盛期である西暦1250年にはメキシコより北では最大の都市であり、その地位は1800年まで超えられることはなかった。
先コロンブス期の多くの文明は、定住/都市生活、農業、都市の巨大な建築、大きな土木工事および複雑な社会階層など特徴あるものを打ち立てた。これら文明の幾つかは、初めてヨーロッパ人が訪れた時(15世紀末から16世紀初期)よりはるか前に滅亡していっており、考古学的調査でのみ知りうるものである。その他の文明は植民地時代に存在し、当時の歴史史料に記録されている。マヤ文明のような少数のものは独自の記録された歴史がある。キリスト教文化のヨーロッパ人の大半はそのような記録を異端と見なしたので、その多くを焼いてしまった。隠匿されていた文書が僅かに今日に残っており、現代の歴史家に古代の文化と知識についてその一端を垣間見せている。
ヨーロッパ人に遭遇したときのアメリカ大陸文明は多くの点で見事な完成度に達していた。例えば、アステカ人は世界でも最も印象的な都市、テノチティトランを建設しており、現在のメキシコシティの地にあった古代都市は20万人の人口を擁したと推計されている。アメリカ大陸の文明は天文学と数学の世界でも印象的な業績を残している。
これら文明から後世に伝えられた社会や文化が残っているところでは、以前のものとかなり異なった形態のものになっている。これらの人々とその子孫の多くは様々な昔に繋がる伝統と慣習を引継ぎ、より最近に採用してきたものと融合させている。
[編集] アジア人の移住
詳細は「パレオ・インディアン」を参照
古代にアジアの遊牧民がベーリング地峡(ベーリンジア)、現在のベーリング海峡とおそらくは北アメリカ北西部海岸を伝ってアメリカ大陸に入ってきたと考えられている。アメリカインディアンの母系で継承されたミトコンドリアDNA(mtDNA)に見付けられた遺伝学的証拠によって、アジアから多様な遺伝子を持った人々が移住してきたという学説を裏付けている[1]。ただしこれは単一民族の移住という考え方を排除するものではない。数千年の間に、パレオ・インディアンが北アメリカと南アメリカ中に拡がっていった。アメリカ大陸に正確にいつ最初の人々が移住してきたかについては多くの議論の対象となっている。最も初期に識別できる文化の一つはクローヴィス文化であり、およそ13,000年前のものとされている。しかし、2万年前にまで遡ることのできる遺跡の存在が主張されている。遺伝学的研究では、アメリカ大陸への移住を4万年から13,000年前の間のこととしている[2]。
人類の移動の順序については現在2つの一般的なアプローチに分かれている。1つは「短期間移動学説」であり、アラスカを通って新世界への最初の移動は14,000年から17,000年前になって起こったのであり、その後に移住の波が続いたというものである[3][4][5]。2つめの学説は「長期間移動学説」であり、最初の人類集団がこの西半球に入ったのはもっと前の時代、おそらくは5万年から4万年前あるいはそれ以前であるとするものである[6][7][8][9]。
北アメリカでも南アメリカでも放射性炭素年代測定によって14,000年のものとされる人工物が発見されている[10]。人類はこの時期までに南アメリカの南端であるケープホーンにまで到達していたと考えられている。学者の多くは、エスキモーなどの民族がさらに後の時代、おそらくは西暦で最初の千年紀の間にシベリアから氷を渡ってアラスカに移動してきたということで合意している。
[編集] 北アメリカ
「インディアン」および「先史時代の北米大陸」も参照
人類の移動が何度か繰り返された後、最初の高度な文明[11]が興ったのは数千年後、最も初期のものでも紀元前5000年とされている。アメリカ大陸の住人の多くは狩猟採集民だった。先進文明が現れた後でも、18世紀まで狩猟採集民が大陸の大半の地域に住んでいた。多くの先史文化はパレオ・インディアン期前半、パレオ・インディアン期後半、古期、前期ウッドランド文化[12]、中期ウッドランド文化、および後期ウッドランド文化などに分類されている。
初期のパレオ・インディアンは間もなくアメリカ大陸中に拡がり、数百にもなる文化的特徴のある国家や部族に分かれていった[13]。北アメリカ大陸におけるパレオ・インディアンの適応の仕方は拡大された家族、およそ20人ないし50人で構成される小さくて高度に移動可能なバンドと呼ばれる集団が特徴である。これらの集団は好みの資源を取り尽くすと新しい資源のあるところへと次々に居所を変えた[14]。パレオ・インディアンは効率の良い狩猟者であり様々な道具を携行した。これには狩猟に用いる効率的な道具の他に、それほど特徴は無いが屠殺や皮剥に使われた道具もあった。パレオ期の大半では主に現在は死滅しているマストドンのような巨型動物やバッファロー(アメリカバイソン)を狩って生活していたと考えられている[15]。
北アメリカの気候は紀元前8000年までには安定し、今日の気候に大変近いものになった[16]。このことで広い範囲への人々の移住と農耕が進みその結果アメリカ大陸全体が人口が劇的に増加した[16]。数千年の間にインディアン民族は多くの植物種を栽培し、繁殖させ、耕作した。これらの品種は現在の世界で耕作される穀物の50ないし60%に相当している[17]。気候、生態、植生、動物相および地形の広大さと多様さのために古代の人々は文化または言語の分化が進んだ。言語は社会生活の様式や精神的な慣習に影響するために言語によってある民族の同一性が一部形成された[18]。
アメリカ大陸のインディアン民族に伝わる口承神話は、いずれも過去に世界は水に覆われたものであり、そこから隆起した大陸(亀の島)に現れたのがインディアン民族であり、彼らが人類の始祖であると伝えている。
北東部にヨーロッパから白人が侵入してきたとき、多くのインディアンは狩猟採集民で、カヌーを使い、森林部をウィグワムで移動していた。また定住型の農耕文明を持つ部族もいた。多くはヨーロッパ文明に対応して新しい部族や連邦を形成した。良く知られる部族としては、北東部のワイアンドット族(ヒューロン族)、アラスカのハイダ族、南西部のアパッチ族、東部のチェロキー族、北西部のスー族、北東部のデラウェア族(レナペ)、東部のチョクトー族、モヘガン族、イロコイ連邦(モホーク族、オナイダ族、セネカ族、カユーガ族、オノンダーガ族および後にはタスカローラ族を含む)およびアラスカのエスキモー、カナダのイヌイットがあった。南方のメソアメリカの文明ほど実質的に進んだものは無かったが、現在の� ��メリカ合衆国の範囲には広範な先コロンブス期定住型社会があった。イロコイ連邦すなわち「長い家の人々」は政治的に進んでおり、特徴的な社会構造があったので、直接的ではないまでも後のアメリカ合衆国の民主主義発展に少なからぬ影響を与え、ヨーロッパから来た強い君主制とは別のものになっていた。彼らの文化はすべて母系社会であり、合議制を基本としている。これは現在も変わらない。
[編集] ウッドランド期
北アメリカの先コロンブス期のウッドランド文化の時期は、北アメリカ東部でおよそ紀元前1000年から紀元後1000年の期間に当たる。「ウッドランド」という言葉は1930年代から用いられ、古期とミシシッピ文化の間の先史時代の遺跡を指している。この期間のアデナ文化とそれに続くホープウェル伝統では巨大な構築物を建設し、大陸中に交易と交換のネットワークを作り上げた。
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