次に、タリバンの布告とその背景にある論理について見ていきましょう。
1.タリバンの布告
「神の道を学ぶ者たち」を意味するタリバンは、1994年9月南部のカンダハールで一つの組織として結成されました。当初、各地で暴徒と化していた元聖戦士たち(ムジャーヒディーン)の一掃と、国内の法と秩序を回復を目指していたタリバンは、アフガニスタン国内の多くの人々に歓迎され、戦闘らしい戦闘もしないまま、一年足らずの間に国土の半分を支配するようになります。1996年9月、タリバンはついに首都カーブルを制圧します。
ソ連占領下のカーブルは、幾重もの防衛線で固められていたため、ゲリラ活動や破壊活動も少なく、ごく平和だったと言われています。治安は保たれ、ソ連から支給される食糧も豊富だったため、避難民がカーブルに押し寄せました。また、当時カーブルの町で目立ったのが女性の姿です。男� ��がゲリラ戦や政府軍に出て行くため、学校や病院といった公共施設や商業活動が女性の手に委ねられるようになりました。女性が町にあふれる開放的な雰囲気は、タリバンの目には西洋文明の影響による「腐敗」だと映りました。そこで、タリバンは、同年11月、次のような布告を出します。
カーブル、1996年11月
女性よ、家から外へ出てはならない。もし外出する場合には、着飾り、化粧をして男性たちに姿をさらしたイスラーム以前の女性たちのようになってはならない。
救いの教えであるイスラームは女性に特別な尊厳を与えている。イスラームは女性に対して有益な指針を示している。女性は彼女らを良い目で見ない男たちの気を引くような機会を持ってはならない。女性とは家庭において教師であり� �調整者である。夫、兄弟、父親は家族に必要なもの(食物や衣服等)を供給する責任を持つ。もし、女性が教育や社会的要請、あるいは社会奉仕のために外出する場合には、イスラームのシャリーア
*にしたがって身体を覆わなければならない。もしも女性が自己顕示のために着飾り、きらびやかでぴったりとした、魅力的な衣服で外出した場合、彼女らはイスラームのシャリーアに従って呪われ、天国に行くことは望めないであろう。家族の年長者とすべてのムスリムはこの点に関して責任を持つ。われわれはすべての家族の年長者に対して、家族をしっかりと管理し、こうした社会的問題を防ぐように要請する。さもなくば、これらの女性とその家族の年長者は宗教警察によって脅され、調べられ、厳罰に処されることとなる。
宗教警察はこれらの社会的な問題と闘うことが義務であり、その責任を持っていると考え、悪が絶えるまで努力を続けるものである。 (出典:Ahmed Rashid, Taliban, NY, 2001, Appendix 1)
*シャリーア…原義は「水場に至る道」。人間生活のあらゆる側面に関する規定であり、あらゆる時代・地域において有効なイスラーム法。
さらに、宗教警察は以下のように細かい規定を布告します。
1.女性が法的な近親者(マフラム
*)に同伴されずに外出したり、旅行したりすることを禁止する。2.女性が法的な同伴者を伴って外出する場合には、ブルカあるいは同様のもので顔を覆わなければならない。
3.女性が法的な近親者を伴わずに車のフロントシートに座ることを禁止する。発覚した場合、車の同乗者/運転手を厳罰する。
4.店主は顔を覆わない女性と売買することを禁止する。もし行った場合には罰せられる。
5.結婚式のために車を花で飾ることを厳しく禁止する。また、町中を周ることも許されない。
6.女性をホテルやホテルでの結婚式に招待することを禁止する。
7.法的な近親者を伴わない女性はタクシーを乗せてはならない。もし乗せた場合、運転手の責任となる。
8.バスやミニバス、ジープの中で女性� �運賃を集める者は10歳以下でなければならない。
amoskeagナイアガラフォールズ、ニューハンプシャー州マンチェスター英語の原文はこちら
続く12月には、次のような布告を書いた文書が配布されます。
社会の混乱とヴェールをしない女性[bi Hejabi]を防止する: イランのブルカを用いている女性を車に乗せることを禁止する。万が一従わなかった場合、運転手は投獄される。もしそのような女性が道を歩いていた場合、彼女らの家は探し出され、夫は罰せられる。女性が刺激的で魅力的な衣服を着て、近親の男性親族を伴わない場合、運転手はそのような女性を乗せてはならない。(出典は同上)*
なぜ、タリバンは女性の外出を禁じたのか。なぜ、女性の顔を覆うことにこだわったのか。タリバンのこれらの布告は私たちにとって大変理解しにくいものです。しかし、イスラームの過去を振り返ってみると、そこには彼らなりの「論理」があることがわかってきます。次に、タリバンの主張の裏にあるものについて考えていきたいと思います。
タリバンによる布告の内容を簡単にまとめると次のようになります。
1.女性は必要以外、外出してはならない。外出する場合には近親者を伴い、顔と身体を覆わなければならない。
2.その理由は社会の混乱や危機を防止するためである。
「社会の混乱や危機」とはなんと大げさな、と思うかもしれません。しかし、これは実はイスラーム世界において古くから一般的にある考え方です。ここでいう「社会の混乱」のことをアラビア語で「フィトナ」(ペルシア語はフェトネ)と言います。「フィトナ」とはコーランの中にも誘惑や試練、責苦、罰、騒乱などの意味で何度も現れる言葉ですが、とくに女性に関して言う場合、女性の誘惑とそれによって起こる社会の混乱を意味します。
イスラー� ��世界では、神への畏れではなく肉欲が人を支配した場合、人は破滅へと導かれるという考えがあります。とくに美しい女性の姿は男性を信仰から遠ざけ、破滅や地獄へと導き、社会に混乱や頽廃をもたらす、と考えられ、怖れられるのです。
1)「フィトナ」と女性の顔
コーランには次のような啓示があります。
信徒らに言え、視線を下げて陰部は大切に守るようにと。その方が彼らにとってより正しい。本当にアッラーは彼らの行いをよく知っておられる。(24-30)
また、女の信徒らに言え、視線を下げて陰部は大切に守るようにと。そして外に表れているもの以外、飾りを人に見せないように。胸にはヒマール(ヴェールの一種)をかけて [中略] 自分たちの飾りを見せてはならない。[以下略] (24-31)
さらに、女性の信仰者に「外に表れているもの以外、飾りを人に見せないように」と命ずる部分は、ムスリム女性がヴェールを着用すべき根拠とされています。が、ムスリム女性はいったい身体のどの部分を覆えばいいのでしょうか。「外に表れているもの」とはいったいどこなのか。「飾り」とは何を指すのか…。
女性が身体全体と髪を覆うという点に関しては、中世から現代までほとんど異論がありませんでした。問題� �「顔」と「手」をどうするかです。初期のコーラン注釈者であるタバリー(923没)、バガウィー(1122没)、ザマフシャリー(1144没)は顔と手を露わすことは許されると考えていました。とくにザマフシャリ−は、女性が物事を行なうときに手を使ったり、証言や裁判、結婚などの際に顔を見せる必要があるため、顔と手は「外に表れているもの」として露出することを認めています。
その後、12世紀の神学者ラーズィー(1209没)は、コーラン注釈書の中で「アウラ」という概念について詳しく説明しています。
刑事裁判官になる方法「若い女性は顔を露わすことが禁じられている。これは顔がアウラだからではなく、触ることなどによって、フィトナの怖れがあるからである。たとえ、醜く、欲望が起こる心配がないとしても同様である。」
基準はさまざまですが、コーランの注釈書を時代ごとに追っていくと、初期の解釈では覆う必要のなかった女性の顔や手が、「フィトナ」への怖れから見ることが制限され、しだいに隠されるべきだと考えられるようになったことがわかります。
2)「フィトナ」と女性の外出
女性の顔や姿だけが「フィトナ」の原因ではありませんでした。11世紀の著名な神学者ガザーリー(1111没)が、一般信徒の教化のために著したと言われる『宗教諸学の甦り』の中で、次のように記しています。
慎み深い女性が夫の許しを得て外出することは、現在許されてはいるが、外出しない方が安全である。また、重要な用件の場合のみ家を出ることが望ましい。見物や重要ではない用件のために外出すると、道徳 心が減じ、ときに堕落につながる。もしもどうしても外出する必要がある場合には、男性から視線を下げることが望ましい。女性の顔が男性にとって [アウラ} であるように、男性の顔が女性にとってアウラであるというのではない。 [女性にとって男性の顔は] 男性にとって髭のない若者の顔のようなもので、フィトナの怖れがあるため見ることが禁じられているのである。もしもフィトナがなければ禁じられることもない。いつの時代でも男性は顔を覆わず、女性は外出するときに顔に覆いをかけてきた。もしも男性の顔が女性にとってアウラであるとすれば、男性の顔を覆うように命じられるか、必要以外は外出を禁じられていたであろう。(al-Ghazali, Ihya 'Ulum al-Din, vol.2, p.47)
ガザーリーはさらに別の書で、
「できる限り [自分の妻を] 外に出してはならない。屋根に登ったり、ドアのところに立たせたりしてはならない。他人が彼女を見ないように、また彼女も他人を見ることがないようにしなければならない。小窓やバルコニーから男性を見せてはならない。すべての悪事は視線から始まり、家の中にいるのであればその心配はないが、[家の中でも] 小窓やバルコニーやドアや屋根の上から[悪事が]始まることがある。」(al-Ghazali, Kimiya-ye Sa'adat, vol.1, p.316)
と記し、女性は、夫以外の男性を見ることによって積極的に「フィトナ」をもたらす恐れがある、それを防ぐためにはなるべく女性を外に出さないように、家の中でもドアや窓などの近くに寄せないように男性に忠告しています。ガザーリーの後にも、トゥースィー(1235没)、前述のサァディー(1292没)などは女性を家から出さないように、近親以外の男性を見せないように、男性から見られないように、としきりと忠告しています。余談ですが、『アラビアン・ナイト』でも、長旅に出かける夫が母親に妻のことをこう言って頼む場面があります。
「決して戸外に出してはなりません。また家や壁のところから外をのぞかせないようにして下さい。」(池田訳794夜)
ラーズィーの少し後にコーラン注釈を著したクルトゥビー(1272没)は、顔は「外に表れているもの」であり、「アウラ」から除外されていると結論付けながらも、当時のウラマー(宗教指導者)の次のような言葉を付け加えています。
「その女性が美しければ彼女の顔と手を怖れなさい。彼女のフィトナがそこに隠れている。しかし、もしもその女性が老婆だったり、醜かったりする場合は顔と手を出すことが許されている。」
こうして「フィトナ」への怖れから、女性を外出させず、どうしても外出させるときにはヴェールで顔まで覆わせなければならないという考え方は、20世紀に至るまでさまざまな文献に見ることができます。
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このようにムスリム女性の顔が覆われ続ける中、1882年に始まるエジプト占領時、総督を務めていたクローマー卿(1917没)は著書『近代エジプト』Modern Egyptの中でイスラーム社会が直面している困難の原因が、女性の地位を貶めたことにあると断言します。そこでクローマー卿は女性の「顔」と「外出」について次のように記しています。 イスラーム諸国で女性の地位を貶めた結果を見てみよう。ムスリム女性の地位とヨーロッパ女性の地位とでは主に二つの点によって根本的な違いがある。何よりもまず、公的な場所に出るとき、ムスリム女性の顔はヴェールで覆われている。ムスリム女性は隔離されて生きているのだ。ヨーロッパ女性の顔は公衆の面前でもむき出しである。ヨーロッパ女性の行動を制限するものは彼女自身の道徳観念だけである。[中略]
女性隔離が東洋社会に悪影響を及ぼすことは疑う余地がない。これに関する議論はあまりに陳腐でここに触れる� �要もない。女性隔離が、女性の関心をごく限られた空間の中に押し込み、知性を閉じ込め、ムスリム諸国の人口の半数にあたる者たちの精神的な発達を妨げていることを明らかにすれば十分であろう。[中略]さらにその女性の妻として、母としての能力は、夫や息子たちの性質にも大きな影響を及ぼし、女性隔離が男性―その習慣をもたらし、現在も守りつづける―に悪影響を与えることは明らかである。
「ムスリム女性の顔はヴェールで覆われている。ムスリム女性は隔離されていきているのだ。ヨーロッパ女性の顔は公衆の面前でもむき出しである。ヨーロッパ女性の行動を制限するものは彼女自身の道徳観念だけである。」ここで、クローマー卿は「顔を覆うこと」は女性の自由を奪うことであり、そうして女性を閉じ込めることは結果的にムスリム社会全体に悪影響を与えると主張しているます。こうして、クローマー卿らヨーロッパ人の主張は、西洋的な教育を受けたムスリム知識人の間にも広まっていきます。イスラーム世界内ではエジプトのカースィム・アミーン(1908没)が著書『女性の解放』によって口火を切り、以後、女性の「顔」を覆うか、覆わないかはイスラーム世界全体を巻き込んでの大論争となりました。
� ��洋的な教育を受けた王族たちや首相らが、上から「ヴェールからの解放運動」を始める国もありました。アフガニスタンは成功しなかったまでも、そうした国々の一つであったことは前述の通りです。こうした「近代化」の流れを受けて、ムスリム女性の多くは顔を露わすだけでなく、ヴェール自体着用することをやめていったのです。
4)イスラーム復興運動と顔ところが、その後しばらくすると、再び「ヴェール」を擁護する動きが強くなります。インド人ムスリムのマウドゥードィーはウルドゥー語でコーラン注釈を著し、1939年、とくに女性のヴェールの問題を『プルダ』(ヴェール・隔離などの意)という一冊の本にまとめました。これは、1960年代にアラビア語にも翻訳され、イスラーム世界全体に大� ��な影響を与えることになります。その中に書かれた「顔」と「女性の外出」に関するマウドゥーディーの解釈を見てみましょう。
<顔>
<外出>
また、現在、ムスリム女性が顔を覆うのは、宗教的なものだけでなく、社会的、思想的にさまざまな理由があると言われています
*。*
現在のムスリム女性のヴェールについては今後の課題としています。Rugh, Revealing Reveiling: Islamist Gender Ideology in Contemporary Egypt, Albany: State University of New York Press, 1992、El-Guindi, Veil: Modesty, Privacy and Resistance, Oxford/Ny: Berg, 1999などにある程度書かれています。2002年エジプトのカイロにて撮影した「ニカーブ」姿の女性。
さて、ここでもう一度、タリバンによる布告のはじめの部分を見てみましょう。 女性よ、家から外へ出てはならない。もし外出する場合には、着飾り、化粧をして男性たちに姿をさらしたイスラーム以前の女性たちのようになってはならない。
救いの教えであるイスラームは女性に特別な尊厳を与えている。イスラームは女性に対して有益な指針を示している。女性は彼女らを良い目で見ない男たちの気を引くような機会を持ってはならない。女性とは家庭において教師であり、調整者である。夫、兄弟、父親は家族に必要なもの(食物や衣服等)を供給する責任を持つ。もし、女性が教育や社会的要請、あるいは社会奉仕のために外出する場合には、イスラームのシャリ� �ア*にしたがって身体を覆わなければならない。もしも女性が自己顕示のために着飾り、きらびやかでぴったりとした、魅力的な衣服で外出した場合、彼女らはイスラームのシャリーアに従って呪われ、天国に行くことは望めないであろう。
女性の姿や顔に対する意識が、イスラーム世界においてどのように変化してきたのかを考えると、上の文の意味や、タリバンが女性の「外出」や「顔」にこだわった理由が見えてきます。そして、タリバンの主張の真意はマウドゥーディーのものと重なることがわかると思います。
1.女性が法的な近親者に同伴されずに外出したり、旅行したりすることを禁止する。
2.女性が法的な同伴者を伴って外出する場合には、ブルカあるいは同様のもので顔を覆わなければならない。
3.…
タリバンの精神の基となるもの自体は現代のイスラーム復興の潮流に乗ったものだったと言うことができます。しかし、タリバンは自分たちの解釈による宗教法をすべてのアフガン女性に強制し、守らない者に対して厳しい罰を与えてきました。アフガン社会と女性の立場を無視した強制はさまざまな問題をもたらします。夫を亡くし、子どもたちとともに残された女性がどうやって「法的な同伴者」を伴って外出できるでしょうか。そのような女性はどうやって家族を養っていけるのでしょうか。
タリバンの例はイスラーム復興運動の「行き過ぎ」たものであり、それは他のイスラーム社会にとっても一種の警告になったと言えるでしょう。
また、注目すべきはタリバンに対する非イスラーム世界の反応で す。西洋のメディアは一斉に、顔を覆うとはなんたる抑圧、顔を覆われた女性を救おう、と叫び始めました。これは、「何よりもまず、公的な場所に出るとき、ムスリム女性の顔はヴェールで覆われている。ムスリム女性は隔離されて生きているのだ。」という19世紀末から20世紀始めにかけて展開された「西洋文化至上主義」のものと何ら変りません
*。*参考サイト
The Camera and the Burqa(かなりおもしろいです)
それまで声高に「ブルカ」による抑圧を報じていたメディアはここぞとばかり、数少ない「ブルカ」を脱いだ女性を次のようなキャプションと共に映し出します。
「顔見せる自由」
アフガン女性たちがいっこうにチャードリーを脱ごうとしないないことです。それどころか、女性の一人での外出が可能となったため、街中にはチャードリー姿が増えているのです。
おかしい、なぜ女性たちはチャードリーを脱がないのでしょうか。
2002/11/15付 読売新聞(左)と朝日新聞(右)
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